オーストラリアの囚人たち 4
こうして囚人、エマンシピスト、下賎な生まれの自由市民がこちゃまぜとなる中で社会は形成されていきました。
クラーク枢機卿は、その模様をこう述べています。
文官、軍人、英国国教会の聖職者等、上流階級の人々は、シドニーやホバートタウンに舞踏場や社交場を再現しようとしていた。
町はロンドン社交期のファッションや華やかさで賑わいを見せていた。
しかしその一方、酒場、飲み屋、未開墾地の小屋では、酒を飲み、けんかに明け暮れる生活があった。
人々は欲望、渇き、飢えにあえぎベツィー・バンディクート、ボールド・ジャック・ドノホーの世界ができあがっていた。
だが、アイルランド人社会では、家族、その他のつながりが重要な基盤となって社会が形成された。
アイルランド人エマンシピストにも土地が払い下げられていた為、1820年代までには、共同社会を作って入植するための財源が蓄積されていた。
シドニー南部のカムデン、アッピン地区ではローマカトリック教徒の占める割合が高くなった。
植民地はどんな人間をも受け入れてくれるというニュースが本国に広まり、数多くのアイルランド移民を生む結果となった。
そのため、オーストラリア総人口の中で、とりわけ自由移民の中にアイルランド人が占める割合が高まった。